第三回「領海、領空侵犯はなぜ頻繁に起こるのか?」<後編>解説:佐藤 常寛(元海将補)

ch_nippon2010-06-19

Q:前編では中国について、解説していただきました。もうひとつの隣国ロシアはどうでしょうか?
A:ロシアは、ソ連が崩壊したあと、政治体制を共産党一党独裁から共和制に移行しましたが、我が国との間で「平和条約」を締結しないままの状態が続いています。戦後、我が国が連合国の占領から独立した「サンフランシスコ条約」にソ連は署名せず、ソ連の後継となったロシアも「平和条約」を締結しないまま今日に至っています。

ソ連終戦の混乱に乗じて、「日ソ中立条約」を一方的に破棄し、旧満州に侵攻、また、北方四島を不法占拠したのは、周知の通りです。

残念ながら、「日・ロ間」には今もって「平和条約」は締結されておらず、北方四島を占領されたままの、完全な終戦状態ではない事実があります。この視点に立てば、ロシアが「対象国」として航空機による領空侵犯を繰り返し、その都度、我が国のレーダー・サイトの性能と緊急発進する空自戦闘機の対応能力とを調査・確認しているその意図が明確になります。

このロシアの平時における情報活動は、純軍事的視点では当然といえますが、領空侵犯を座視するだけで対処しなければ、我が国の防衛体制が脆弱であるとの誤解を与えかねません。

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Q:抑止力につながる日本の防空体制の現状、課題を私たちはどう理解しておく必要がありますか?

我が国の「防空識別圏ADIZAir Defense Identification Zone)」を監視する「自動警戒管制組織(バッジ・システム:Base Air Defense Ground Environment System)」を正しく機能させ、早期警戒・緊急発進対処を適切に実行し続けることが、航空機によるロシアの「渡航侵攻」意図を未然に放棄させることにつながり、「抑止力」になります。

このために、航空自衛隊パイロットが、日夜、緊急発進態勢を維持し、「即応待機」している事実を、理解して下さい。

ロシアが北方四島を米国が沖縄を返還したと同じように返還し、「日・ロ平和条約」を締結するまで、ロシアは潜在的な脅威であると認識すべきなのです。

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Q:「ロシアはすでに脅威ではない」と安心してはいけないということですか?

戦後65年間、平和な状態にどっぷり浸っている日本人にとって、危機・脅威に対する意識が軽薄になるのは仕方のないことかもしれませんが、安全保障に関してだけは「先憂後楽」の心掛けを忘れないことです。

平時においても、領海・領空侵犯は国際法違反ですので、その都度、正しく国民に報道し、外交ルートを通して相手に抗議し続けなければなりません。領域侵犯に関する報道が少なく、外交的な抗議もあまりない状況は、国を挙げて「平和ボケ」しているのだと侵犯国が嘲り、今後も同じ行動が続くと肝に銘じるべきです。

東西冷戦が終結し、ソ連が崩壊してロシアに政権が移行しても、ロシアの軍事組織が我が国に対して気を緩めることなく、情報活動を続けている実態は、理解しておくべきなのです。

参考までに、情報を大別すると次の四つに分けられます。

  1. HUMINT(Human Intelligence) 人的情報
  2. COMINT(Communication Intelligence) 通信放送情報
  3. ELINT(Electric Intelligence) 電磁波情報 
  4. ACINT(Acoustic Intelligence) 水中音響情報

HUMINTは映画「007ジェームズ・ボンド」に描かれるようなスパイによる情報の他、イラク戦争後にイラク兵捕虜からの情報入手が拷問ではなかったかと問題になったような捕虜からの情報等、人的な情報です。

有名なのはソ連スパイによる米国からの「原爆製造」情報に基づいて、ソ連が原爆製造に成功した例があります。最も卑近な例では、現職の自衛官が中国女性に色仕掛けで情報を要求された、いわゆるハニー・トラップHoney Trap)はこの情報収集手段のひとつです。

Q:ハニー・トラップと聞くと、まるで映画やドラマのようなことが現実に起こっているのですね。
A:ハニー・トラップ(Honey Trap)は、直訳すれば「蜜の罠」。すなわち、女性がその「魅惑」を武器に男性を虜(とりこ)にして、必要な情報を手に入れる手段です。旧ソ連の情報部門が積極的にこの「罠」を仕掛けたことが知られていますが、歴史的に興味深い事件を例示してみましょう。

マタハリ」は第一次世界大戦中、ドイツのスパイとして活躍したオランダ人女性。インド舞踊のダンサーが本職で、「マタハリ」はその芸名でした。大変美しい容貌とヌードに近い妖艶(ようえん)な踊りで、大戦前のパリで一躍有名となり、フランスの貴族、外交高官、高級軍人の愛人を遍歴している際に、ドイツによってスパイに仕立てられました。スパイとしての実績には疑問もありましたが、1917年2月、フランス当局に逮捕され、同年10月銃殺されました。

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  • プロヒューモ事件

1961年、イギリスのジョン・プロヒューモ陸軍大臣は、売春婦でヌードモデルのクリスティン・キーラーと親密な仲になりました。ところが、この女性が在英ソ連大使館の海軍武官とも関係していることが、当時のマクミラン内閣で問題となり、その後、マスコミの報道によってプロヒューモは辞任に追い込まれました。機密漏洩(ろうえい)が実際にあったかどうか、真実は「闇の中」に葬られましたが、現職の陸軍大臣が「罠」に嵌められた事件として、イギリス国内だけでなく、アメリカ、フランス等の軍事同盟国でも、大々的に扱われました。プロヒューモは結局晩節を汚し、不遇のうちに世を去りました。

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  • 上海の日本領事自殺事件

2004年5月、在上海日本領事館の若い領事が自殺しました。その遺書から、彼がカラオケ店で知り合った中国女性を介した組織から情報の提供を強要されていた事実が明るみに出ました。自殺した領事は「日本を裏切ることは出来ない」と遺書に認めていたとのこと。自業自得とはいえ、不幸な「罠」の中で、最後は毅然と「日本人としての矜持」を貫き通したその姿勢に、同情を禁じ得なかった事件でした。平和な日本国内では、想像できないような「工作」が、今もって中国国内では行われている事実を、理解しておく必要があります。

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こうした事例から見えてくるものは、人は必ず母の胎内から生まれ出る運命(さだめ)を背負っているため、ことに男性は、「母」を通して潜在的に女性を崇める傾向にあること。そして、男性は「母性」に甘える、この弱点を衝かれた時、「ハニー・トラップ」に嵌められやすいということです。軍事だけでなく、国内外問わず、企業その他の重要機密を「ハニー・トラップ」によって盗まれないよう注意しなければならないのです。

ところで、HUMINTとは別の視点での国際的な「ハニー・トラップ」としては、古代エジプトクレオパトラ女王が、紀元前48年、ユリウス・カエサル(シーザー)に単独で逢い、「蜜の罠」で英雄の心を虜にし、エジプトを救った故事があります。「ハニー・トラップ」は古くからあったものですね。

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Q:COMINT、ELINT、ACINTについても、詳しく教えていただけますか?

COMINT(Communication Intelligence)は通信・放送を傍受して、内容を分析、相手の国情・意図等を日頃から蓄積しておく情報を指します。1980年代まで英国ではアフリカのガボン放送中継所を経由する主要諸国の放送を傍受・解析して世界の動き・各国の情勢を分析していました。近年、部隊間の交信は、送・受信機で暗号化し、傍受解読されないよう、注意が払われています。

捜査手段としての通信・会話の傍受

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ELINT(Electric Intelligence)は、電波からγ(ガンマー)線までの電磁波のうち、レーダー波等を対象とした情報のことをいいます。ロシアの戦闘機の領空侵犯は、我が国の航空自衛隊のレーダー・サイトのレーダー周波数の分析、航空基地からの緊急発進対処能力を把握するために、意図的に実施していると考えるべきです。
レーダ技術

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ACINT(Acoustic Intelligence)は海水中のあらゆる音響を対象にした情報です。特に、対潜水艦戦を目的とした音響情報収集には、東西冷戦下の米ソ潜水艦が鎬(しのぎ)を削りました。
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映画「レッド・オクトーバーを追え」で描かれた米ソの潜水艦戦は少しオーバーな表現もありましたが、水中の潜水艦同士の戦いは、互いに「暗闇」の中で、眼の見えない映画でもおなじみの「座頭市」同士の争いに似ています。相手の存在場所を音だけで判断します。このため、「対象国」潜水艦の音響特性を収集することが極めて重要なのです。
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Q:海上自衛隊創設以降初めての、潜水艦による30日間「無寄港・無補給」行動を達成した「うずしお」の乗組員としての経験やその後も潜水艦勤務が長く、艦長も務められた佐藤さんならではの貴重なお話だと思います。対潜水艦戦が真っ暗闇で視界ゼロ、そんな中で音だけを頼りに戦うという事実も驚きです。もう少し詳しく教えていただけますか?

A:海水中の潜水艦にとって、相手(敵)潜水艦の位置を確認する手段としては、ソーナー(SONAR:Sound Navigation and Rangingの略)と呼ばれる水中音響装置しかありません。ソーナーには、自ら超音波を発してその反射により相手を探知する「アクティブ・ソーナー」と、自らは静粛を保ちながら相手の発する音響を補足して、その位置を推測する「パッシブ・ソーナー」があります。潜水艦は水中で静粛を保つ隠密行動が特徴であり、最大の武器です。したがって水中では、静粛を保ちながら、ただひたすら聞き耳を立てて聴音に努めます。

 自らを静粛にしておかないと、相手から先制攻撃を受けるため、潜水艦の艦内はさまざまな工夫が凝らされています。一例を挙げれば、潜航状態の艦内では艦長以下乗組員全員が音を立てないようにゴム底の運動靴を履き、ラッタル(階段)には毛布を巻いておくこともあります。それぞれの潜水艦が戦いの中で生き残るためには、こうした艦内の静粛化のための工夫を凝らし、さまざまな知恵を絞ることがとても重要なのです。

Q:素人考えで恐縮ですが、海中は雑音も多いような気がします。音に対する集中が生死を分けることに直結する、極度の緊張が長く続く過酷な勤務ですね。

 その通りです。水中で潜水艦同士が戦闘状態に入った時は、互いに息を潜め、ソーナーからの探知情報に全神経を集中させるのです。

 ところが海水中は、イルカ、カニ、エビ、その他の魚の声が入り混じり、結構賑やかな雑音に溢れています。この背景雑音の中から潜水艦が発生させる、独特の音を聞き分けるには高度の聴音能力が要求されます。

潜水艦が発生させる、人工的な音、例えば、キャビテーション・ノイズ(=スクリューが海水を掻き回す時に発生する気泡の音)、舵を動かす油圧の音など、を聞き分ける上級ソーナー員は、艦の耳なのであり、「レッド・オクトーバーを追え」では、しばしば艦長を直接補佐するシーンが見られましたね。こうして、潜水艦は暗闇の中で、耳を頼りに戦います。

 日本近海では、海上自衛隊と米海軍潜水艦の間では、お互いに行動する海域を区分しながら行動するのですが、ある時、他の潜水艦がいないはずの海域で水中スクリュー音を比較的近くで聞いたことがありました。おそらく、第三国海軍の潜水艦であったと考えられます。水中衝突を避けるためにもソーナーの聴音警戒は重要です。

潜水艦勤務は日々「海の守り」の一端を担い、水圧と戦いながら、長期間海水中で勤務しています。こうした潜水艦乗組員の表には出ない苦労があるという事実を多くの方に理解していただけたれば幸いです。

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Q:貴重なお話、体験談を交えて分かりやすく教えていただき、本当にありがとうございます。次回からは普天間基地移設問題をはじめ、日本の基地について大局的なお話を伺いたいと思います。よろしくお願いします。

過去記事はこちら↓からご覧ください。

   http://d.hatena.ne.jp/ch_nippon/20100605/1275705873

  • 第二回 領海・領空侵犯はなぜ頻繁に起こるのか?<前編>

   http://d.hatena.ne.jp/ch_nippon/20100612/1276323216

(聞き手・構成:小関達哉)