山田道雄理事(元海将)紹介

ch_nippon2010-06-08

【理事略歴】

山田道雄(やまだ みちお)

1945年愛媛県生まれ。

防衛大学校(11期)卒業後、1967年海上自衛隊入隊。


1985年護衛艦やまぐも艦長。

以後護衛隊司令防衛庁海上幕僚監部課長、護衛隊群司令

練習艦隊司令官、開発指導隊群司令海上自衛隊幹部学校長、

海上幕僚副長、呉地方総監を歴任。元海将

2001年退官。退官後は三菱電機(株)電子システム事業本部顧問、
NPO法人救助犬訓練士協会事務局顧問、国内渉外担当。
NPO法人平和と安全ネットワーク設立とともに同理事を務める。

動画で見るインタビュー「活躍する自衛隊OB」
救助犬訓練士協会国内渉外担当山田道雄氏はこちら↓
http://www.jpsn.org/move/m018.asx (チャンネルNippon)

山田道雄理事(元海将)インタビュー

Q:現役時代の役職(最終履歴)とその役割について教えてください。

A:海上自衛隊に35年間勤務しまして、最後は広島県呉市に本部がある呉地方隊の指揮官、呉地方総監(海将)でした。

海自には北から大湊、横須賀、舞鶴、呉、佐世保の5つの警備区があり、本部(総監部)のある地名をとって〇〇警備区と呼称しています。旧海軍では総監部を鎮守府と呼び総監を鎮守府司令長官(海軍中将)と呼んでいました。沿岸の警備と艦艇部隊に対する修理、補給等の後方支援が主な任務です。


Q:自衛官として最初の任務はどんなことでしたか?

A:昭和44年、最初の任地も呉で、先代の護衛艦たかなみ(1,700トン)の砲術士兼第1分隊士兼甲板士官でした。

砲術士は砲術長の下で3インチ速射砲の対空・水上射撃の訓練や整備を担当します。

分隊士は乗員の服務指導、人事を担当、甲板士官は艦内の規律・風紀・整理整頓など何でも担当し、ふつう最も若手の幹部が指名されます。
その年「たかなみ」は練習艦隊に編入され遠洋航海に参加しましたので、その5ヶ月間は専ら1期下のクラスの実習幹部の指導が主な任務でした。遠航のコースは南西・東南アジア・オセアニアでしたが台湾に寄港したのはこの年が最後になりました。
  

Q:もっとも長く経験された任務を教えてください。
A:1等海尉から3等海佐にかけて横須賀に新編されたプログラム業務隊という部隊に約3年間勤務しました。ちょうど海上自衛隊の近代化、デジタル化の夜明けの時代で、指揮統制システムや艦上戦闘指揮システムにコンピューターの導入を推進した時期でした。

先行している米海軍のシステムを導入し勉強する事が第一で、私自身も「しらね」に導入するシステムやデータリンクの要員として約半年米留しました。30過ぎてコンピューターの「いろは」からというハードな勤務でしたが、充実した日々でした。

この部隊は海自の近代化、システム化という任務をとりあえず終了し、約30年で発展的に解消されました。


Q:現役時代の忘れられない任務の思い出、エピソードをひとつ教えてください。

A:80年代中期、東西冷戦たけなわの頃、護衛艦やまぐもの艦長として単艦ソビエト海軍のノボロシスク・バトルグループを監視・追従した任務が最も印象的です。

当時米海軍の好敵手であったソ連の新鋭空母「ノボロシスク」など約10隻の艦隊が初めてウラジオストクから対馬海峡を南下し、南西諸島を横切って太平洋に進出してきたのです。当時の新聞は「熊は泳ぎを覚えたのか?」のセンセーショナルに書きました。

その6年後にソビエト連邦は崩壊しました。よく「海上自衛隊は実戦の経験がない」と指摘されますが、確かにあの時代我々は米海軍と共に冷戦を戦い、立派に勝利したのだと思います。
      

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